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日本の、常識、という概念。続いていく軍国主義。終わりのない復讐心。そして孤独感。

日本という国は、生きづらさを感じさせられる国だ。

ハッキリとした定めもない中で、

戦後からかいつからかわからないけれど、

様々な場面で現れてくる、軍国主義。

私たちの世代はこうだった。

そう語り、いつまでも何かしらの風潮を押しつける。

国旗、国歌主義。

体罰。

集団社会。

根性論。

その他にもどれもこれも、

今は決して必要のないものだ。

いつまでも、自分の中にある考えを押しつけ、

延々とそれを信じ続けている。

自分的には、もっと、人と人とが信じ合えるような社会であってほしい。

自分の個性を生かせるようなものであってほしい。

勝ちなのか負けなのか、ではない、

最悪あったとしても、

負けだからこそ得られる同情や愛の形、

勝ちだけれどそれ相応の圧迫感、

ある程度の平等をはかれるような社会であるべきだし、

どちらかに傾くようなものであってはいけない気がする。

誰かを思いやることに、優しく接することに、

自分自身が心から喜びを見いだせるようなものであってほしい。

この社会はそうじゃなかった。

そして、どこまでも、どこまでも、卑怯な奴らの集団だったんだ。

誰かに優しく接し、嘘をつかないで生きていると、

それにつけこまれ、馬鹿にされ、結果的に疎外され。

生きる希望を失い、人間という存在に対して憎しみから入ることになる。

勿論、全員が全員そういうわけではないとしても、

自分はそうであったし、そういう集団なり、狭い社会というのは、

少なからず存在すると思う。

日本という社会は、基本的に、今でも、

個性を尊重しない。

そして、あるコミュニティの主導者は、自分勝手だ。

皆がこうだから、お前もこうなれ、だとか、

失敗したら殴るだとか。

絶対にあってはならないと思うようなことが、

思っているより、平然と、存在している。

そんな伝統があっていいはずがない。

自分勝手に相手をコントロールしていいはずがない。

人それぞれ存在する個性というものを、

決して、誰一人として、

潰して良いはずがない。

絶対に、邪魔していい権利はない。

あなたはあなただから美しい。

そう、お互いが言い合えるような、

お互いが尊重できるような、

そんな社会であってほしい。

でも実際、そうじゃない。

自分勝手に誰かを傷つけ、

愛だなんて名目を武器に、ストレス発散をしている。

自分が納得しているだけなんだ、と

いつになったら気づくのだろうか。

俺たちと違うから、あいつをいじめようだとか、

結局は自分に個性がないだけなんだと、

いつになったら気づくんだろうか。

そして、ただ単に個性を潰そうと、

嫉妬しているだけなんだと、

いつになったら気づくんだろうか。

そして何よりも、いじめをするということが、

いつから、正しいと思い込み、

そして、自分自身に何の罪悪感もないのだろうか。

子供というのは、思っている以上に、残酷なものだ。

恐ろしいものだ。

自分にはわかる。

教師がいないのを見計らい、

いじめようとした対象を、教師の干渉の及ばないところへ

連れて行って、そして、集団で、

相手を、思う存分、殴る、蹴る。

汚い言葉を言って、去って行くまで、それは続く。

教室では、平然と悪口を言われ、

それに便乗することで、

次のターゲットにならないようにする。

こんなことが、もしかしたら、性別を問わず、あるかもしれない。

誰に相談しても、実際に解決することはなく、

教師は、くだらないことばかりには説教をしても、

いじめについてはどこまでも逃げていく。

やり返せばいい、と言い放っておく。

それで勝てるのなら、そうして、次に自分が無事であると、

自分自身を納得させることが出来るなら。

そんなことを教師なんかに言われなくても、

とっくに自分でしているはずだ。

教師は何の役にも立たない。

親は、親身になって考えてくれるから、

時には役に立っても、

いじめは結局は収まらない。

証拠をハッキリさせなければ、

逮捕もされないし、そこまでうまくできるなら苦労しない。

泣き寝入りするしかないような状態に置かれる。

学校というものは、そして生徒というものは、

そこまでに、恐ろしいもんなんだよ。
自分なら、ハッキリと言える。

いじめられてまで、学校に行く必要はない。

これを批判出来る奴は、そもそもいじめられていないだろうし、

いじめられても自分で解決したのだろうと思う。

それが出来ない人は、死ぬか、卒業まで我慢するか。

そんな選択肢しかない。

そこまでに、恐ろしい。

そんなものに、行く義務があるだなんて、誰が言えるというのか。

今でも自分は、復讐心というものに深く囚われている。

これは、いじめられた、という人以外にも、

勿論、体罰もそうだ。

出来ないから殴る、蹴る、大声で怒鳴る。

こんなことが、許されて良いはずがないだろう。

もし良いのなら、

何を持ってして、良いと言えるのか。

理由を聞きたい。

出来るも出来ないも、本人の自由なんだよ。

誰かに指図される覚えもない。

自分が出来ることをすればいい。

自分の好きな分野だけすればいい。

個性を大切にする、という考えが、

サッパリない奴ばかりだと思う。

そんな伝統があっていいはずがないんだよ。

愛のムチなんてのも、あっていいはずがない。

やってることは暴力。

いじめと同じなんだよ。

もしそれをしたならば、

その後相手が怪我をするかも、

相手に心の傷が残らないかも、

その後の相手の人生の、全責任を負う、

義務が発生していい。

暴力を振るって、何が出来るようになるわけでもない。

うまくなるわけでもない。

ただただ、不満が募り、心に傷を負っていくんだよ。

人は、誰かに殴られ、蹴られ、罵倒され、

疎外され、孤独感を感じていく。

そこから成長なんてものが、あるというのか。

一度負ってしまった心の傷を治すのは、

簡単なことではない。

誰が責任を負うのか、最後は自分になる。

だからこそ、誰も、相手に何かを言える権利はないんだよ。

相手の全責任を負えないなら、

直接命令することも、服従させることも、

出来るはずがないんだよ。

それに、全責任を負えるとしても、

相手がそれで納得できないようならば、

決して、無理に強いることは出来ないはずなんだよ。

それが人間というものであってほしいし、

少なくとも自分ならば、

絶対的な服従なんてのは、

どんな状況におかれても、

それを出来るような状況にあったとしても、

絶対にしたくはない。

相手のことを尊重し、思いやることこそが、

本当に、自分にとって、幸せだと思えるようでありたい。

自分はこれまで、いじめられてきたからこそ、

殴られ、蹴られ、罵倒され、

制服も勉強道具も、どこかへ捨てられ、

靴には蛙の死骸なんかも入れられたりして、

金目のものなんてのは盗まれ。

そんな学校生活を送ってきて、

人の痛みをわかるようになったんだよ。

でも、憎しみは消えない。

一度深い憎しみを持ったならば、

一生、その憎しみを背負い、

それを晴らすためだけに生きようと思うようになる。

きっと、幸せとは言えないだろうと思う。

心のどこかで常に、優しさと憎しみと、

色々な感情が混ざって生きていくことになる。

関わりあえる人の数も限られる。

自分のことをわかってくれる人でなければいけない。

そうでなければ、自分が傷つくことになるから。

そうして結局、一人、孤独感を感じていく。

同じような人がいたなら、

自分はハッキリと、その人の味方だと言いたい。

心からそう思う。

詩・随筆