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「絶対的」な、安全も平和も、正義もない。

この世の中に、絶対的な、安全はない。

日本は安全だ、などと言い切れるなら、

きっと今頃、自分もこんな事を言っていない。

安全はどこにもない。

ただ、多数の人にとって、安全であるだろう、平和であるだろう、

という結論が見いだせる方向に、社会が向かっていっただけだ。

けれど、その先には、確実に、疎外された人、文化による、

さらなる危険が待っている。

「全員」が同じ行動をするわけがない。

何かを規制し、何かを見ないようにする社会になればなるほど、

その実態は、多数派の人々にとって見えなくなる形で残り続ける。

何かを疎外すればするほど、確実にそれは、

個人に、また社会に対しての、「復讐」が待ち構えている。

この世の中に、絶対的な、安全はない。

この世の中に、「絶対的」な正義はない。

ある人にとっての正義が、ある人にとっての悪であり、

ある人にとっての悪が、ある人にとっての正義であり。

人間は、論理で動いているように見せかけて、

全くもって、感情で動いている。

自分の中で納得がいったら、

それがたとえどんな宗教であれ、詐欺であれ、参加する。

なぜなら、本人には、その自分自身を、客観的に見ることが出来ていないからだ。

自分が信じる正義のために、人は戦う。

それは絶対的な「正義」ではない。

かといって、絶対的な「悪」でもない。

その「正義」を信じる人にとってのみ、それは「正義」として在り続けるのだ。

どこにも絶対的な「正義」はない。

この世の中から、「憎しみ」が消えることはない。

誰かが誰かをいじめ、いじめられ。

憎しみの連鎖、「復讐」という名の、主観的な「正義」。

託された「復讐」は、世代を超えて、永遠に受け継がれる。

それは生命が始まりを迎えてしまった瞬間からの宿命であったのかもしれない。

法律は「命」を保障しない。

「命」の前では、何もかもが、危険を伴う。

特殊な能力や技術がない人にとって、

たった一度だけ、何よりも強い者になれる。

その瞬間だけは、誰かを裁くことが出来る。

それは、自分の「命」を捨てる時だ。

そうしてまた、次の「復讐」へと受け継がれていくのかもしれない。

お互いに、「終戦」を誓うことは、一時的にはあっても、

再び何かのきっかけで、「復讐」の火は燃え上がっていくことになる。

ただ、自分はここで「強く」言いたいことがある。

「復讐」をする相手は、「自分が被害を受けた人」に対してであるべきだと思う。

そうでなければ、「復讐」をすべき相手にせずに、

全く関係のない人に「復讐」をするという結果のみが残る。

それは本当に、あるべきではない、と思う。

もしその「間違えて復讐」をしてしまった相手も、

決して幸せに生きてこなかった人だったならどうだろう。

そして、自分に対して理解を示す人だったならどうだろう。

だから自分は、そういう結果を出さないために、

ある意味で、健全に、憎しみ、悲しみ、孤独感、閉塞感を語り続けてきた。

それは、自分のためもあり、誰かのためでもある。

どこにも、「安全や平和」も「正義」もない。

だからこそ、自分は、それを伝えることで、

それをわかってもらうことで、

すべての人類が、理解しあえる世界にはならないだろうか、

と常に思っている。

論説・評論