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ただ信じるものが違うだけだ

ただ信じるものが違うだけだ

お互いに会話を交えようとも、
お互いに信じるものが違う時点で、
お互いに決して納得する事はない

なぜならば、信じるものが違うからだ

どちらが正しいか、そういう話をしてもキリがない

なぜならば、「絶対的な正義、悪」はないからだ
「在るとされている」のは、「国家」が決める「ルール」であって、
それは、あくまでその「ルール」が定める範囲内に居る人に適用されるだけで、
そこに人間として居なければ、適用される事はない。
ただ、人間との力関係によって、人間に害を与える行為であるとしたら、
それはやはり他の動物であろうと処罰されるとともに、
人間が同じ事をするよりも悲惨な結末を迎えることになるだろう。
ただ、その「ルール」を定める権限を持つ者が、
動物愛護法的な事をその「ルール」に含めていたならば、
これは結果が変わってくる。

どうあれ、これもやはり、「国家」が定める「ルール」によるものだ。
たとえそれが、ルールを破る者にとって悪であろうとも、
その「ルール」を違反した場合、「国家」からすると悪だと認定されてしまう。
そう認定された以上、そのルールを破る者が、「国家」以上の力がない限り、
処罰されることになる。

要するに、勝った方が正義、でしかない。
ここ最近は、これを誤解している人が圧倒的に多い。
言うならば、「国家」に飼いならされてしまった状況だ。
飼いならされるという行為が有意義たりえるのは、
後にそれ以上の見返りがある場合のみだ。

けれど日本に長くいる人の多くは、
言うならば、「国家」に逆らうよりも、
「国家」に飼いならされる事の方が、
自分に見返りがあると思っている。
というより、それ以上に、
逆らっても無駄だ、という意識がある。

逆らっても無駄だから、逆らわない。
この流れが、あらゆるところで適用されていった。

そうして今や、静かな「いがみ合い」。
言ってしまえば、冷戦状態にある。
それが閉塞感をもたらしている。

面識のない人たちの交流はどんどん難しくなっていった。
お互いがお互いを警戒し、冷戦のもと、孤独を感じさせる。
こういう日々の中で、生きづらさを生じさせた。

こうなるともはや逆らっていかなければいけないと思う。
逆らわずに終える事が良い事だとは決して思わない。

詩・随筆