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どんな事をするかではなく、結局は認められるか、愛されるかどうかでしかないのだろう。

果たして、「価値」はどこでどのようにしてつくられるのだろう。
潜在的に「価値」は存在するのだろうか。
少なくとも今の世の中では、それは違う。
それが「必要とされるかどうか」が重要なのであって、
その度合いだけが「価値」を決めている。

いくら自分が良いと思って何かを成し遂げても、
それを世間がどのように評価するかで「価値」が決まる。

いくら苦労しても、そのために命を削ろうとも、
評価されなければ、愛されなければ、「無価値」と見なされる。

「価値」のある事をしたと見なされるためには、
その時代の需要に合わせた何かを成し遂げるしかない。
または、自分が新たに「価値」を創造していくしかない。

ナンバーワンとしての「価値」、オンリーワンとしての「価値」、
どちらの「価値」も、認められる事は容易ではない。

ナンバーワンと見なされるには、
それがカテゴライズされるものにおいて、
他のすべてを差し置いて一番良いと見なされなければならない。

オンリーワンと見なされる事も容易ではなく、
自分一人だけが「オンリーワンだ」と叫んでも、
認めてもらえなければオンリーワンだとも認識されない。
認識されなければ、実質的に「オンリーワン」だとは言えない。

そうなると、果たして自分の「価値」はあるのだろうか。
そのように疑問を持たざるを得なくなる。
多くの人は、ナンバーワンともオンリーワンとも見なされないがゆえに、
代わりの何かをもって自分の中でそれを「価値」と見なしておくか、
ナンバーワンではなくとも、上位層であるという誇りや、
何らかの幸せを「価値」と見なして納得しておくしかない。
けれど、ふとその「価値」の有効性に疑問を持ったとき、
その「価値」が全く無意味に感じられてしまう事もある。

たとえ人生自体が無意味、と達観するにしても、
「死ぬまで生きる」事は確かであり、
何らかの感情を抱かずにはいられないだろう。
死んでしまえば何もかも終わり、だとしても、
生きている時間、空間は存在しているのであって、
それまでも消し去る事が出来なければ、
誰かに「価値」を認められなければ、
生きていく希望もなくなるのではないだろうか。

この生きづらい世の中で、
自分自身の「価値」を認められ、愛されなければ、
人はきっと生きていけないだろう。
たとえ消極的に、死ではなく生を選ぶとしても、
それはもはや「生きている」とは言いがたい。
何者にもなれないという事実だけを抱えたまま、
密やかに、絶望したまま、死んでいく。

論説・評論