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絶対的な「正義」は存在せず、ただ主観的な「感情」だけが存在している。

 「正義」は相対的なものであり、全人類にとって絶対普遍の「正義」など存在しない。もし「絶対的な正義」があるように思えても、実際にはそれはその個人にとってのものでしかない。である以上、その主観的な「正義」は誰にでも通用するものではない。自分は「正義」だと思っても、相手が「悪」だと思ったり、その逆も当然のことながらある。
 例えほとんどの人が「悪」だと思っても、そうではないと思う人も少なからずいるかもしれないし、自らが「正義」だと思えば、少なくとも自分にとってそれは「正義」である。法律違反であろうと侵略戦争であろうと、倫理的または道徳的に多くの人が「悪」だと思うような行為であろうとも、それが「絶対的に悪」と判断できる根拠にはならない。しかも現実的には勝者が「正義」になってしまう場合が多い。「正義」の基準が共通前提として成立すると仮定しなければ「正義」は成立し得ないのである。
 もし一神教が全人類にまで普及し、その後誕生した子供もそれを信じることが確実である場合に限り、その宗教が「絶対的正義」であるかのように既成事実化することは可能だろう。ただ、かつてそうではなかったという過去を消すことは出来ないのであり、結局のところそれは、そうした体制が整った後における絶対的正義でしかない。
 
 「正義」などという概念を持ちだして誰かを非難しても無意味である。「主観的」な体験によって何かを感じたり、誰かから何らかの主張を見聞きした結果として人々が洗脳されて信じ込んだとして、それらがどんなに「正義」や「悪」を装っていたとしても、その実態は「感情」である。
 残念だ、嬉しい、悔しいなどという「感情」をむき出しにして人々が争っているという事実だけが存在しているだけであり、その「感情」の表出が「正義」であるか「悪」であるかと判断することはできない。主観的な「感情」の根拠として「正義」が取り上げられる場合には、あくまで取り上げる人にとって都合の良い解釈をしているものに限られるだろう。
 「正義」や「悪」などという虚構には限界がある。だからこそまずは存在しているのが「感情」だけであるということ、そして最終的には勝った方が「正義」になってしまう事実を認識するべきだろう。