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「リア充」「非リア充」という二項対立の曖昧さ。

 「リア充」という用語は一般に「リアルが充実している者」の略であり、「リアルが充実している者」を「リア充」、「リアルが充実していない者」を「非リア充」とされているようだ。しかしながらこれはあまりに曖昧な二項対立であるように思われる。
 そこでまずは「リア充」に関連した「〜充」という用語をいくつか参照しながら「リア充」について考えていきたい。
 関連する用語としてまずは「ネト充」というものがある。これはネット上での活動において充実している人達のことを意味するようだ。しかし「ネット」は「リアル」において行われていると考えれば、そこで本人が「充実している」と感じている限りは「リア充」と言っても否定できるものではない。しかも最近ではスマホの普及などの決定的な要因も含め、インターネットがかつてよりも身近になったため、「ネト充」とされる人は格段に増えたとともに、必然的に「ネット」上において出会いの場が増え、かつての「ネト充」とは少し意味合いが違ってきているだろう。
 また、「キョロ充」という用語もある。解釈が様々あるのだが大まかに言えば、常に人の目を気にしてキョロキョロと辺りを見渡し、一人では何も行動できないにも関わらず、「リア充グループ」の一員であるというアイデンティティに支えられて、自分が「充実している」と感じている人達のことを意味するようだ。例えばこの「キョロ充」とされる人達には、合図となるだけの言葉(「マジか」「ハンパない」など)を繰り返すことがコミュニケーションなのだと信じていたり、常にテンションが高かったり、ネット掲示板などで自分の充実ぶりを自分より充実していないであろうと思われる人達を相手にして披露したりするなどの行動が見られるのだそう。おそらくこの手の人は今の日本には非常に多いのではないだろうか。またこの「キョロ充」を「リア充」に含むという解釈を受け入れる人は一定数いるようだ。
 その他にも「ソロ充」という用語があり、一人きりの生活が充実していて、一人で楽しむことができる人を意味するようだ。「ボッチ充」も同様の意味合いの用語であるが、違いは「友達の数」で、「ソロ充」は友達がいるが、「ボッチ充」は友達の数が「ゼロ」である。しかしどちらにせよ、一人きりの生活というのも「リアル」であり、それが「充実」していると解釈するならば「リア充」であると言えるだろう。
 これらの「リア充」に関連する「〜充」という用語はいずれも「リア充」ではないという判断がなされる場合が多いようだが、異なる解釈をしてみればいずれも「リア充」になり得るということがわかる。
 また、「リアルが充実している者」というよりは「恋人がいる者」という意味で「リア充」という用語を使っている人達もいる。とりわけバレンタインデーやクリスマスの時期などに強調して使われる場合はおそらくほとんどの場合この意味である。
 しかしながら、「恋人がいる」ことと、「リアルが充実している」こととの間には隔たりがあるように思う。2人とも「リアルが充実している」と思っていないカップルを果たして「リア充」と呼ぶべきなのだろうか。「恋人がいる」からと言って、必ずしも「リアルが充実している」とは限らないのである。
 例えばバレンタインデーやクリスマスの時期などに「リア充爆発しろ」などという表現がよく使われるが、その場合には「カップル爆発しろ」という表現の方が適切のように思われる。何も無理に「リア充」という用語を使う必要はないのである。(しかもこの解釈をしてしまえば「好きな人と恋人になる」ことと単に「恋人をつくる」ことを全く同じことのように捉えてしまうのではないだろうか。)
 その他にも、「リアルが充実している」という言葉における「充実」を「忙しさ」に着目して解釈するならば、例えば仕事の予定が詰まっていて帰りも飲み会に参加しなければならなくて忙しい状況なども「リア充」になるのだろうか。おそらくここでは「充実」とは何かという解釈の問題が浮上してきてしまうだろう。やりたいことが仕事ではないのだとしたら、仕事によって自分の趣味が妨げられたり、自由な時間の確保が難しくなっているということである。それを果たして「充実」と呼んでいいものだろうか。
 そのように考えていくと、自分以外の他者が「リア充」(=リアルが充実している者)かどうかを厳密に区別するのは不可能であるように思われる。
 結局のところ、「リア充」だと思う人が「リア充」であるということになるのかもしれない。あくまで主観的な判断に委ねられるにも関わらず、本人の主観を否定して、他者が「リアル」が「充実している」かどうかを判断してもそれは無意味だと言わざるを得ないだろう。