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「不平等」と「善悪判断」

 親の経済状況によって機会は制限されるし、同じ努力をしたからと言って同じ結果が出るわけでもない。「機会の平等」も「結果の平等」も存在せず、結局のところ全ては「運」次第だと言えるだろう。
 持っていないものを得ようとして社会的に「悪い」ことをした人は「悪い人」として認識されがちである。しかし、もし裕福な家庭に生まれていれば、そのようなことをしなかったかもしれない。むしろ、社会的に「善い」ことをしたかもしれない。「持たざる者」であるがゆえに、社会的に「悪い」ことをせざるを得なかったのである。
 
 また、あらかじめ望む物を全て与えられていたがゆえに社会的に「悪い」ことをすることもなく、さらに社会的に「善い」ことをした人は「善い人」として認識されがちである。しかし、もし貧乏な家庭に生まれていれば、そのようなことをしなかったかもしれない。むしろ、持っていないものを得ようとして、社会的に「悪い」ことをしたかもしれない。「持つ者」であるがゆえに、社会的に「善い」ことをする余裕があったのである。
 結局のところ、世間一般における「善悪判断」というものは、単に社会を維持するための道具として都合良く使われているだけであり、それによって行われるのは、「持たざる者」が得ようとするのを妨げることと、「持つ者」がそれを保持することの促進だけであろう。