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コメディとしてのゲイ文化 – くそみそ・ガチムチ・淫夢を中心に

(*注 日本における「ゲイ文化」の「ネタ的消費」[2014/10/3] からタイトル変更)

 ゲイ文化のネタ的消費の歴史は(解釈にもよるが)2001年頃が始まりのようである。(例えば『六尺兄貴』などがその代表である。)しばらくは匿名掲示板(「2ちゃんねる」など)によるテキストベースの消費が続いたのだが、2007年頃からはニコニコ動画(動画の再生タイムラインによって、同じ時間を共有していないユーザー同士があたかも同じ時間を共有しコミュニケーションを交わしているかのような錯覚を得ることができる動画投稿サイト)による、動画ベースでありながら、コメントにおけるテキストベースでの消費もなされるという形式が主流である。
それとともに、ゲイ文化のネタ的消費者の母数はどんどん増えていき、その存在感を考えれば、今やネットではその消費者を「少数派」と言えるものではなくなっている。
 そこで今回はその中でも象徴的とも言える『くそみそテクニック』『レスリングシリーズ』『真夏の夜の淫夢』の3つを取り上げ、それらを踏まえてゲイ文化のネタ的消費者がゲイ文化に求めるもの、消費する理由や、それらが流行して大衆化するまでについて考えていきたい。

 『くそみそテクニック』は、山川純一氏による一話完結の漫画(元々は1987年に男性同性愛者向け雑誌『薔薇族』に掲載されたもの)であり、その内容はおおまかに言えば、予備校からの帰宅途中に尿意を催した道下正樹が、公園の公衆トイレを目指して急いでいたが、その近くのベンチに座っていた阿部高和を一目見て思わず欲情して、阿部が突然ツナギのホックを外し始め、自らの陰部を道下に見せつけてトイレに誘われることから始まる、とある男子予備校生の「初めてのハッテン場体験」をテーマとした漫画である。
 まずこれは「あやしいわーるど」(積み上げ型掲示板くずはすくりぷとを採用し、黒板色の背景でチャット的にレスを連ねていく特徴を持つ匿名掲示板。2ちゃんねるの初期の文化に大きな影響を与えた。)系列の掲示板の一つの「あやしいわーるど@暫定(暫定退避)」において、2002年2月から7月頃(2001年からという説もある)に『くそみそテクニック』をはじめ、山川純一氏の作品がアップロードされ、そこから「ふたば☆ちゃんねる」(電子掲示板・WebBBSの一群。アップローダー以外の全掲示板においてスレッドフロート型掲示板の体裁を取っている。)を経由して「2ちゃんねる」にまで伝わった。(2003年3月14日 03:45 に、「【ムホッ!】ホモ漫画のガイドライン【いい男】」 というスレが立っている。)
 これについては、先述したようなあまりに突拍子もないような内容と、作中の台詞(「ウホッ!いい男……(道下正樹)」「やらないか(阿部高和)」「すごく…大きいです…(道下正樹)」など)の面白さにより、一部のネットユーザーの間でブームとなり、2003年11月には作品集も刊行された(『ウホッ!!いい男たち~ヤマジュン・パーフェクト』復刊ドットコム)。
 そしてニコニコ動画に進出することでその流行は加速していった。代表的な動画は「くそみそテクニック フルボイス 完全版(sm913895)」や、2007年9月にアップロードされた「バラライカ PV いさじ with 阿部ダンサーズ(sm975673)」
であり、後者に関しては所謂「踊ってみた」が大流行するきっかけの一つとも言えるものである。
 この『くそみそテクニック』の流行がその後の「ゲイ文化のメタ消費」の土台になったと言えるだろう。

 『レスリングシリーズ』は2007年8月頃から2ちゃんねるのyoutube板における「ニコニコ動画工作支持スレ」の「住民」(閲覧・書き込みをする人)がランキング工作したことから始まる。当初はユーザーの目を引くために、釣り(ここでは例えば18歳未満にふさわしくないタイトル・サムネイルをきっかけとして視聴したが、削除対象となるであろうシーンの直前で『レスリングシリーズ』の一部を流したりする等の行為のこと。)等の嫌がらせのために動画が制作され使用されていたが、秀逸な空耳やアニメのオープニング動画などと絡ませた派生のMAD(動画や音声を編集・改編し、新たな意味が付加された動画や音声、二次創作物)の流行により、次第にこの『レスリングシリーズ』そのものが受け入れられていった。
 その中でも特に使われたのは「本格的 ガチムチパンツレスリング(sm1175788)」(元の動画は『Workout: The Directors Cut』であり、その一部がアップロードされたものが動画投稿サイト「ニコニコ動画」で投稿されたものである)は大流行し、「だらしねぇな」「歪みねぇな」「仕方ないね」の3つの空耳から「妖精哲学の三信(だらしねぇという戒めの心、歪みねぇという賛美の心、仕方ないという許容の心)」という宗教的言説なども創作され、支持されていった。
 また、2009年・2012年には、『レスリングシリーズ』の象徴的存在とも言える「兄貴」と呼ばれ親しまれているビリー・へリントン氏が来日し、大きな話題を呼んで、2012年にはfigmaも発売された。
 しかしその後急速に『レスリングシリーズ』の流行は下火になっていった。(とは言え、未だに多くの支持者が存在している。)

 『真夏の夜の淫夢』については、正式には『BABYLON STAGE34 真夏の夜の淫夢 the IMP』というゲイビデオのことである。
 これが普及したのは、2001年にとある有望な大学野球選手がゲイビデオに出演していたというスキャンダルが週刊誌で報道され、そのビデオにインターネットを中心として一部の人の間で注目が集まったことがそもそものきっかけである。そのときの注目の対象はあくまでその選手が出演していた第一章「極道脅迫!体育部員たちの逆襲」のみであった。
 しかしその後、2008年10月にニコニコ動画に第四章「昏睡レイプ!野獣と化した先輩」の本編動画がアップロードされ、その内容が、水泳部の田所が後輩の遠野を(日焼けの目的で)自宅屋上に誘い、遠野に睡眠薬入りアイスティーを飲ませて昏睡レイプをするというもので、当初は拒否感からかあまり浸透する様子がなかったのだが、2009年には既にそこに登場する田所は「野獣先輩」と呼ばれてキャラクターとして受け入れられた。MAD動画もつくられたが、この段階ではまだ「野獣先輩」がそこまで人気ではなかったため流行らなかった。(MADの内容は「オシャレ淫夢(通称)」などを除いて、『レスリングシリーズ』よりも全体的に「汚さ」を際立たせたものが多い。主に使われる部分が性行為の最中であったり、浣腸後の排便(下痢)をしている様子を、運営に削除されないように上手い具合に修正しながらも、その時の排泄音や人物の表情などを積極的に使うという、『くそみそテクニック』や『レスリングシリーズ』とは一線を画したものである。)
 しかし2010年に「空手部・性の裏技」(通称:迫真空手部)が発掘されるとともに、流行は一気に加速していった。また、2010年には「東方合同動画企画】魔理沙とアリスのクッキーKiss(sm9720246)」(通称:クッキー☆)が投稿され、これが後に大きな影響を与えることになる。これは東方Projectの二次創作で、所謂百合ファン向けのストーリー動画であるのだが、雑なシナリオ展開と絵柄が頻繁に変わる作画、声優陣の棒読み演技などにより評判はよくなかった。しかしながら『真夏の夜の淫夢』第二章の内容と似ているとして注目され、結果的に動画全体が「淫夢語録」などで埋め尽くされる(荒らされる)という事態になった。(通称の「クッキー☆」は蓮奈理緒氏が、荒らしコメントにフィルター機能を使用して置換した単語に由来する。)この「クッキー☆」と『真夏の夜の淫夢』を組み合わせたMADも多数つくられた。
 2011年、2012年頃から2ちゃんねる「なんでも実況J(ジュピター)板」も流行し、2ちゃんねるの「まとめサイト」などにも「淫夢語録」が掲載されたりして、それらもニコニコ動画上やSNS上での流行に一役買ったといえるだろう。
 また、第一回、第二回のニコファーレのイベント中にも関連動画が多く再生され、「ホモ動画上映イベント」などと揶揄されるほどのものとなったため、そのときの公式放送を見て、これまで知らなかったが見てみると「面白い」と思った人が多数いたため、『真夏の夜の淫夢』動画の視聴者の母数を大幅に増やした。
 その他にも『真夏の夜の淫夢』のオープニングに登場する謎の生物についても「淫夢くん」と呼ばれて親しまれており、これについても「勝利のガッツポーズをする淫夢くん(sm16286883)」や、「完全勝利した淫夢くんUC(sm17103796)」などにより流行し、『真夏の夜の淫夢』関連動画の視聴者の母数を大きく増やすことに貢献したようである。
 このような経緯があって、「野獣先輩」を初めとして『真夏の夜の淫夢』はその作品全体が受け入れられていき、MAD動画も大流行したのだが、この規模は非常に大きなものであり、この作品や関連作品を元ネタとするスラングである「淫夢語録」は、『真夏の夜の淫夢』を知らなかったり、一切興味のない人にも知れ渡り、SNS上でも頻繁に使用されることとなった。例えば、「(震え声)」「(小並感)」「(棒読み)」「(迫真)」「(困惑)」などの括弧書きで状況や感情を説明するものや、「草不可避」「微レ存」などは頻繁に使用されているようである。確かにこれらは汎用性・利便性の高さやジョークとしての有用さ等を考慮すると、『真夏の夜の淫夢』と一切関係なく単独であっても非常に使いやすいものであるのだろう。

 さて、代表的な3つについてそれぞれ説明してきたが、ここから先はこれらを消費(ネタ的消費)する理由について考えていきたい。

 まずいずれの場合も、「2ちゃんねる」や「ニコニコ動画」などへの書き込みを見ていると、男性視聴者が女性視聴者を排除する意味合いが程度の差はあれ含まれていると思われる。これは女性が嫌いだからではなく、リアルで彼女ができない(または女性と会う機会がない)ため、せめてここでは女性という概念を排除して楽しんでおきたいという理由からであるとも考えられる。また、女性が絡むことにより「出会いの場」として機能し、コンテンツが衰退していくことを憂うという立ち位置からも考えることもできる。これはあくまで「男性視聴者」が楽しむ上で重要であるという側面を強調するものである。(彼らは異性愛者の男性向けアダルトビデオを消費していたり、性風俗店を利用していると発言している人が多いのを見ると、実際のところ「ゲイではない」人ばかりであることがわかる。また、そのほとんどが「バイでもない」人のようである。しかしながらとりわけ「真夏の夜の淫夢」関連動画においては「ファッションホモ」という用語が多用され、それを忌み嫌うものであるかのような空気が形成されている。「ファッションホモ」を嘲笑するということは「自分は本当にホモである」と主張することと同じであろう。ここでまず考えなければならないことは、ホモセクシャルは本来、男性も女性も含めた同性愛者を指すが、日本では男性同性愛者のことを侮辱的な意味を込めて「ホモ」と呼んでいるため、実際には男性同性愛者(のほとんどは)「ゲイ」と称している。そのためこれは「ファッションゲイ」という用語であるべきで、このようなことから彼ら自身がいかに実際の男性同性愛者のことを知らないかがよくわかる。)
 この女性排除の度合いは『くそみそテクニック』『レスリングシリーズ』は同程度か微妙に『レスリングシリーズ』の方が上であり、『真夏の夜の淫夢』はそれらと比較して格段に上であると考えられる。
 というのも、『くそみそテクニック』は「テキストベース」での消費のときには単純に「面白い」から消費(ネタ的消費)するという人が大半であり、ニコニコ動画での消費(動画ベースでありながらコメントというテキスト消費も兼ねる)とにおいて少し見られたくらいであり、『レスリングシリーズ』に関しては、先述した「妖精哲学の三信」によって女性排除のようなことは推奨されないと考えられたため、多少その手の言説が目立つようになっても自然に減っていった。この2つ(『くそみそテクニック』『レスリングシリーズ』)の消費者は、あくまで「女性という存在を忘れてゲイ文化で笑っておけば(女性と接する機会がなくても)それで楽しいじゃないか」という前向きな態度を要請するものであると考える人が多かったため、せいぜい掲示板や動画内のコメントで「彼女自慢」をしたら嫉妬されて叩かれたり、「彼氏自慢」をしたときに女性を嫌う発言が多少出てくるだけであって、基本的に強調されるようなものではなかった。また、女性が増えるとコンテンツが衰退するという旨の発言を男性視聴者がする場面もあったが、それもやはり程度問題だとして無視できるレベルであった。
 しかし『真夏の夜の淫夢』の動画については女性排除を表明する人の割合が非常に高くなってくる。動画自体も「汚さ」を強調するものがほとんどであり、女性を寄せつけないような、『くそみそテクニック』や『レスリングシリーズ』などが辿った、女性をも含めた大衆化を防ごうという目的意識が感じられるものばかりであった。所謂「カウンターカルチャー」としての色合いが極めて強くなったのである。これは当然の流れで、『レスリングシリーズ』に期待されたある種の「聖域」としての役割もニコニコ動画運営による公式化により薄れたとともに、自分達が創り上げた文化が平気で運営に利用されるという事実を理解したがゆえの反省の意味合いもあるだろうし、数多くの(日本人)女性がそれらを視聴していたという事実がこの時点で確定してしまったのは多くの男性視聴者にとって非常に大きな意味を持った。おそらくは『レスリングシリーズ』から多くの人が『真夏の夜の淫夢』に流れるきっかけにもなったであろうし、彼らの多くは女性を積極的に排除しようとする立場に回ったであろう。また、運営に対して強気の姿勢を見せていかなければならないと一人一人が自覚した側面もあるかもしれない。ゆえに、女性が目を背けたくなるような「汚い」(現に視聴者が「汚い」とコメントする)場面を積極的にMADに使っていき、「運営の犬にもならず、女性にも受け入れられない文化をつくり、楽しもう」という意気込みが感じられる『真夏の夜の淫夢』関連動画が大流行したのであろう。
また、『くそみそテクニック』や『レスリングシリーズ』においても、男性視聴者の多くが「女性排除」の役割を期待していたと考えると、その人達が『真夏の夜の淫夢』関連動画の消費の際には、それまでよりも「女性排除」を期待できる内容を兼ね備えていて、その再現可能性が高いと考えたのだろう。
 この女性排除的な言説については、恋愛をすることが「痛い」ことであるかのような空気が出来上がったり、草食系男子などと騒がれたりする一方で、それに対抗するかのごとくゲイ文化という、日本人からすればマチズモの象徴の一つともいえる文化をネタ的に消費し、仮想的に自信のようなものを持とうとしているのではないだろうか。恋愛ができなかったり、お金を払わなければ性的サービスを受けられない現実を忘れるために、ひたすらゲイ文化をネタ的に消費しているのかもしれない。ここではゲイ文化のネタ的消費はあくまで「他者」への記号発信の役割を担っていると言える。自分自身が消費して満足するのではなく、「他者」との関わりの中で共有することによって満足するのである。かと言ってこれは「女性排除」の意味合いがあるのだから、基本的には「排他的」であり、他者と言ってもあくまで以前からそれらをネタ的に消費をしている人達(通称:古参)とコミュニケーションを取るためには、それを理解しているという言説や用語を使わなければならないということになる。(これは2ちゃんねるの「なんでも実況J板」における「猛虎弁」の役割と同じである。)
 しかしながらいくら排他的に振る舞おうとも、その判断基準自体は曖昧であるため、消費者数が増えていけばそれに伴って「大衆化」していくし、それとともに女性にも受け入れられていく。いくら汚くしようとも、運営に削除されない程度の動画であればそれは女性に受け入れられる余地を残している(むしろ受け入れられないような動画は適宜削除されていく)し、削除されるほど本格的なものについては、それを通して共同体をつくるのが難しくなる。結局「共同体をつくって楽しむ」という目的がある以上、何らかのルールというのは有名無実化していくし、そのルールもどんどん変わっていく。つまり、「女性排除」というのを徹底するならば、その文化を通して「共同体」が成立し続けることは難しくなる。新たなコンテンツを開拓し、その流れの中でしか「女性排除」は成立しない。いつかそこで「共同体」ができれば、「女性排除」というのは不可能になってくるのである。

 また、「嫌がらせ文化」という側面もある。これは2ちゃんねるであれば「スルー」することが出来てしまうため、ゲイ文化においては、ニコニコ動画上での消費になって初めて機能したと言える。(嫌がらせ文化自体は2ちゃんねる上に他にもあったが、ゲイ文化がそれに使われて機能したケースはないと言っていいだろう。)これについては、『くそみそテクニック』の際にはほとんど機能しておらず、『レスリングシリーズ』の際に「釣り動画」において機能したとともに、空耳なども関係のない動画に書き込まれて「荒らし」として機能したこともあったが、「妖精哲学の三信」による要請からか、そこまでは大規模なものとは言えなかった。しかし『真夏の夜の淫夢』については、「釣り動画」としての意味合いはほぼなくなった(「クッキー☆」と絡ませて「一転攻勢(途中から『真夏の夜の淫夢』本編の一部に変わる)」するものもあったが、それはあくまでお約束でしかなく、釣りの機能は一切果たしていない。勿論それは『レスリングシリーズ』の際にも徐々に手法を理解されたのだが、「一転攻勢」はその前に「淫夢語録」が大量に書き込まれるためほぼ無意味であるとともに、ほとんどの視聴者はそれを理解しているはずである。)しかし、「淫夢語録」は(「クッキー☆」のときのように)様々な無関係の動画に書き込まれたため、悪評が広まっていき、それとともに「嫌がらせ文化」として普及していった。しかし結局は『真夏の夜の淫夢』動画が大衆化するとともに、無関係な動画に「淫夢語録」を書く人は「ホモガキ」と呼ばれて忌み嫌うことを推奨する空気が出来上がった。そうして「嫌がらせ文化」として認知されていた『真夏の夜の淫夢』動画でさえも、次第にその機能を失い、単純に「楽しまれる」ものになっていった。

 今度は作品や登場人物に対するリスペクトのされ方に着目してみると、『くそみそテクニック』と『レスリングシリーズ』については極めて単純になされているが、『真夏の夜の淫夢』については基本的に罵倒されながらリスペクトされるという歪んだ評価のされ方をしていると考えられる。というのも、『くそみそテクニック』や『レスリングシリーズ』よりも「汚い」部分が強調されているため、基本的に動画に縋るというよりもむしろ「汚さ」を「笑う」ということを要請されているからである。勿論、『くそみそテクニック』や『レスリングシリーズ』も「汚い」部分もあれば、それを「笑う」という意味合いも含まれる場合はあるが、『くそみそテクニック』については例えば登場人物の阿部高和は「阿部さん」と呼ばれて素直にリスペクトされていたし、『レスリングシリーズ』においては中心人物のビリー・へリントンは「兄貴」と呼ばれ、「妖精哲学の三信」などもあり、崇拝されていたといっても過言ではない。しかしながら『真夏の夜の淫夢』の場合には、中心人物である田所(野獣先輩)については、「人間の屑」などと呼ばれたりなど、決して素直にリスペクトされているとは言いがたい。(勿論、いずれの場合も意識的にであれ無意識的にであれ、ゲイを嘲笑している視聴者がいる可能性は否めない。しかしながら直接的にコメント上で蔑まれたりする傾向については『真夏の夜の淫夢』が特異だと言わざるを得ない。)  しかも、MADに使われる部分が性行為の最中であったり、それどころか浣腸後の排便(下痢)をしている様子を、運営に削除されないように上手く隠しながらも、その排泄音やその時の人物の表情などは積極的に使われる ということなどからも、積極的に「汚い」と思わせようという意志が働いているとともに、人物に対する接し方の態度が現れていると言える。そのためこれについては、「汚い」様子を「笑い」に変えたり、その「汚い」ものが普及していく様子を共有すること自体を「面白い」と感じることを要請される異質な文化なのであった。(勿論、「オシャレ淫夢」などでは野獣先輩は「楽聖」などと言われ純粋にリスペクトされるし、遠野に関しては「世界のトオノ」などと呼ばれ、喘ぎ声が積極的にMADに使用され、完成度が評価されている。しかし「汚い」という前提(「汚い」というコメントを打つ用意が出来ている状態)でそのコンテンツを受け取るという姿勢は変わらない。)
 ここから考えられるのは、『くそみそテクニック』は漫画であるし、『レスリングシリーズ』は動画であったが、どちらも現実的ではないものであるという前提で消費をされていたということである。『くそみそテクニック』は漫画であるため当然だが、『レスリングシリーズ』も「妖精哲学の三信」などを通して宗教的な消費をされていた。しかしながら『真夏の夜の淫夢』については、どこまでも現実的なものを求められていたといえる。『くそみそテクニック』の場合には「ゲイ文化」というよりその始まりだけに注目が集まったし、『レスリングシリーズ』にしろ(お約束という側面はあるが)異世界的なものとして消費された。しかし、『真夏の夜の淫夢』は、演技ではあるにしろ「ゲイセックス」の実際の場面までをもMADに使用するという点で、リアリティに迫っている。しかもそこに至るものも仮想的でありながらもリアリティを追求された。棒読みもリアリティの象徴といえるし、「野獣先輩」が「24歳学生」と公言する様子はまさしくリアルである。漫画でもなく、(お約束ではあるが)妖精でもなく、24歳学生というリアリティは『くそみそテクニック』や『レスリングシリーズ』と大きく異なる。これはそれぞれの文化が要請するリアリティが異なるということである。

 さて、これまで「女性排除」「嫌がらせ文化」「リアリティ要請」においてそれぞれを見てきたが、これによってそれぞれが大衆化する前の、本来的な「消費の理由」を理解することができるだろう。
 『くそみそテクニック』のときは大して「女性排除」も「嫌がらせ文化」としての機能も「リアリティ」も必要としなかった。
 しかし、『レスリングシリーズ』においては、「女性排除」は(女性を認識すると都合が悪いため)必要だが、「妖精哲学の三信」によってそれが抑圧されていた。「嫌がらせ文化」として始まったという経緯はあるが、それはあくまで初期の段階であり、「妖精哲学の三信」が明文化され信じられる以前の段階の話である。つまり、『レスリングシリーズ』においては、「女性排除」は実質的には出来ないことであるとともに、「嫌がらせ文化」としてはそれ自体は機能せず、「妖精哲学の三信」という宗教的な捉え方をされている以上は、それが「リアリティ」を要請しているということにはならない。つまり「嫌がらせ文化」から見いだされたが、それは「女性排除」も出来ないし、「リアリティ」も必要としないのである。
 しかし『真夏の夜の淫夢』については、ニコニコ動画上での消費に限って言えば「女性排除」をし「嫌がらせ文化」として機能し「リアリティ」も要請するという、極めてインパクトのあるコンテンツなのである。
(また、リアリティについて注意しなければならないのは、ここで言っているのは「作品全体」を通して見た場合のリアリティであるということである。『くそみそテクニック』は漫画である以上明確な「作者」がいるという圧倒的なリアリティがあるし、『レスリングシリーズ』にしても「兄貴」と呼ばれるビリー・へリントン氏は来日している以上、「妖精」という捉え方がお約束であったということを要請もするというリアリティがある。『真夏の夜の淫夢』はその点、「作者」といっても様々な人が携わっているし、その内容こそリアリティを感じられるにしても、「野獣先輩」が今どこで何をしているかわからないなどという幻想的な事実が担保としてあった上で流行したのは確実である。)

 このように、ゲイ文化は様々な理由と目的によってネタ的に消費される。しかし大衆化した後はどうなるかと言えば、単純に「面白いもの」であるという捉え方を要請されるようになっていく。そして「女性排除」などを考えているのはモテない奴だと言われ、「嫌がらせ文化」としての存在は変革を求められる。そして「面白いもの」であると作品をあくまでコンテンツとして見る以上、作品内での「リアリティ」は現実世界で流行しているものを見ているという事実がある以上、「メタ」リアリティとしてしか現れなくなる。
 そしてかつてより見ていた人(古参)は「つまらなくなった」という感想を抱くようになるのである。その一方様々な人が見るようになっていく。そしてその流れはその人達(大衆)が飽きるまで続いていくのである。この流れは「ゲイ文化」の「ネタ的消費」だけではなく、ほとんどの場合がそうだと思うのだが、結局このようにどんな「奇抜」なものであっても、人さえ集まればこのような流れは避けられないということである。