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殺人について‐人を殺してはいけないのか

人を殺してはいけないのか。
これまで幾度となく問われてきただけに、
ある程度言い尽くされてしまっているのかもしれないが、
自分なりに一度考えてみたい。

まず、そもそもここでいう「人」というのが何者なのかというところから考えたい。
 これまで人類は「人」を殺してはいけないと定めたことはなく、実際には、
「同じ共同体の成員(仲間)を殺してはいけない」
「同じ共同体の成員(仲間)のために別の共同体の成員(敵)を殺せ」
というものである。
つまり「人」というのはあくまで「同じ共同体の成員(仲間)」でしかないのである。
だからここでは「人を殺してはならないのか」ではなく、
「同じ共同体の成員(仲間)を殺してはいけないのか」について考えていく。
先述したように人類はこれまで「人を殺してはいけない」と定めたことはないからである。
かつてはその「同じ共同体の成員(仲間)」というのが親族や同じ部族に限られるときもあったが、
現代ではそれが全く知らない他人である国民(想像の共同体)にまで拡がったため、
あたかも「人を殺してはいけない」というルールがあったかのように錯覚してしまう。
見ず知らずの他人(国民)同士が共生している空間である以上、
それが同じ「同じ共同体の成員(仲間)」であると見なせない人が多くなってくる。
「国」という物語を信じることができない人にとっては、
「国民」というのは「同じ共同体の成員(仲間)」でも何でもなく、赤の他人なのである。
判断基準は自分にとって相手がどういう存在かだけになる。
 また勿論のことだが、「人」を「人」と認識できない人にとっては、
そもそも「人」を殺してはいけないと言われたところで理解不能である。
誰もが「人」を「人」と認識できるかといえばそうとも限らない。

以上を踏まえ、「人」とは何かを考慮して一旦まとめると、
「人を殺してはいけない」というのはまず、
現状では「共同体の成員(仲間)」つまりは全く知らない他人(想像の共同体)を殺すな、ということであった。
そして「共同体の成員(仲間)」を殺してはいけないと言ったところで、
「共同体」の存在を認めないまたはその「共同体」の外にいると考えている人にとっては無意味となる。
その他にも「共同体の成員(仲間)」であることは認めたとしても、だからといって
「共同体の成員(仲間)を殺してはいけない」という「ルール」を守るかといえばそうとも言い切れない。
よって「共同体の成員(仲間)」とされる人物が「ルール」を主張しても、
当の本人には全く効力を発揮しないだろう。
 
 法律から考えても、「人を殺したとき」どう裁かれるかについて定められているだけで、
「人を殺してはならない」とは明文化されていないのである。
また、たとえ明文化したとしてもそれだけでは無意味だろう。
 また、法律が存在しないと仮定して
「自分や自分の愛する人を殺されないためには自分も殺してはならない」という類の主張をする人もいるが、
自分や自分の愛する人を殺されたくないという感情と人(自分が憎んでいる人など)を殺したいという感情は矛盾なく成立し得るのである。
むしろその場合、自分や自分の愛する人を守るためにはどう在るべきかを考えた結果として、
そのためには敵(人)を殺さなければならないというときもある。
そしてこの主張に関して言えば、自分や自分の愛する人を守る力さえあれば、
いくらでも人を殺してもいいということになるのである。

 殺人を相対化しようとすれば必然的に言い返されることになる。
「人」の命を絶対的なものとみなさなければ、「人」を殺してはいけない、と説明することはできない。
しかし日本では現状死刑制度があるように、国家は人殺しを否定していないのである。
日本は憲法第三十六条における「残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる」という規定を考慮しても、
死刑を「残虐」ではないとして死刑を認めているような国なのだ。
日本においては少なくともこのことを考慮した上で「人を殺してはいけない」という主張の意味を考えなければならないはずだ。
共同体の維持のためには異端な者は「殺し」てでも排除するしかないというのが日本の方針なのである。
たとえ死刑にして排除したとしても、その人物に支持者がいた場合にはきっとそれに対する報復もあるだろう。
国家が仲介して報復を防ごうと「死刑」という形で決着をつけようとしても報復は終わらないはずなのである。
 
 また、よくある意見として
「相手を人だと思う限りは殺せないだろう」というものがあるが、
相手を「人」だと思うからこそ憎い相手を殺したり、愛する人を独占するために殺すという場合もあるのだから、一概にそうとも言えない。
確かに相手を「人」だと思わないことは殺人を容易にする場合もあると思うのだが、
「人」を殺さないというように、「人」一般について言えることではないだろう。
 もっと根源的なものを考えて
「人類が殺し合いを自由に行えるようになると衰退してしまうから、繁栄のために殺すべきではない」という人もいる。
しかし、人類の繁栄に協力する義務が果たしてあるのだろうか。
人間は遺伝子の指令に逆らう能力を持っているため、
必ずしも「人類の繁栄」を望まない人もいるのだ。
そしてそもそも「人類の繁栄」のために人を殺さないという人は多くないだろう。
こうした古典的な「種の保存(群選択説)」に基づく考えも一概に否定はしないが、
そうであれば誰かを殺すこともそれに適用されるのであって、
古典的な群選択説のある一部分を取り出しただけに過ぎないのである。
 その他にも例えば「妊娠中絶」や「ES細胞研究」の問題についても、
果たして成長している胎児は人間ではないのかということや、
ES細胞研究で破壊される着床前の胚はまだ人間ではないのかということについても考えなければならない。
(ついでに言えば自分はプロチョイス派で、望まない子供については妊娠中絶を認めるべきだと思っている。それはなぜかというと、まず母体の保護の問題からして、命を懸けるほどのものでなければ産むに値しないということ。また結局望まれなかった子供は生後親に愛されない可能性が高く、その結果として「生まれなければよかった」と強く思うであろうという予測ができるからである。)
 また飢餓のときに、人を食べる以外に一切生き延びる方法がなく、
人を死体化する必要性が出てきたときには、果たして殺してはいけないのか。
その他にも生き延びることができる人数が限定される場面に際したときには果たしてどうなのか。
たとえ直接的には殺さなくとも、間接的に相手を「死」に追いやるとしたら、それは果たして「いけない」ことなのか。
答えは人それぞれ異なるはずだ。
「人を殺してはいけない」という定言命法だけでは、極限の状態に追い込まれたときのことは一切考慮できない。
 
 具体例は他にも山ほどあるがこの辺で話を戻すとして、
これまで人類は「人を殺してはいけない」というルールを定めたことはないとともに、
「同じ共同体の成員(仲間)」にとっての共通の利益に適うこととして、
「別の共同体の成員(敵)」つまりは「人」を殺すことを推奨されてきた事実がある。
例えば他国や異なる部族との戦争、宗教戦争などがそうである。
その他にも「生贄」を捧げる文化があれば、
「同じ共同体の成員(仲間)」でさえもその文化における権力者や象徴などにより殺すことを推奨されてきた。
結局のところ、権力を持ちさえすれば「人を殺してもいい」ことになるし、「殺しを命じてもいい」ということになるのである。
反逆罪にしても権力者に「負けた」から「悪い」ことをしたとして制裁されるのであって、
もし勝ったならばその新たな権力者によってかつての権力者は逆に制裁されることになる。
権力者からすると「同じ共同体の成員(仲間)」が殺しあうことも、
自分に対する反感を持つ人が増えて反逆されることも望ましくないだろう。
いかに現状維持するかが大事なのである。
 いくら倫理的な問題にしようとも、その時点での権力者が倫理さえも形作る側面がある以上、
何が絶対的に正しいかと考えても埒が明かない。
少なくとも「同じ共同体の成員(仲間)を殺してはいけない」というのは、
これまでの歴史を通して暗黙の「共通了解」とされているだけの非常に脆いルールであり、
それを信じないことも反抗することもできる。
国家による制裁を受けることになっても殺したいという人に対しては、
何も反論することはできず、止めることもできないのである。
 
 「同じ共同体の成員(仲間)を殺してはいけない」というのは「共通了解」でしかない以上、
それを疑ったり相対化したりすれば何の意味も持たなくなるのである。
だから「絶対に」同じ共同体の成員(仲間)を殺してはいけないと考える人にとってだけ、
「同じ共同体の成員(仲間)を殺してはいけない」は成立し得るのと同様に、
「人」一般に関しても、「絶対に」殺してはいけないと考える人にとってだけ、
「人を殺してはならない」は成立し得る。
つまりこれらはいずれも信じる人にだけ適用されるに過ぎないのである。