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空気を読むことについて

「空気を読んで」悪行や合理的ではないことが正当化され、誰も責任を取らない

集団でいじめを行ったり、一気飲みを強要したりして、いざ被害者が死んでしまった場合にも、そういう空気が出来上がったのであって、自分は悪気はなかったのだという人がいる。あるいは、合理的ではないのが明らかであるにも関わらず、部下が上司の意見に対して空気を読んで賛同し、いざ失敗したとなっても、そのような空気が出来上がったのであり、誰かの責任ではなく皆の責任であるということになったりする。このように、意思決定の根拠として空気が重要視されるようになると、悪行や合理的ではないことまでもが空気の名の下に正当化され、責任の所在が曖昧になって、誰も責任を取ろうとしないということが起こるわけである。

「空気を読め」は少数派排除にすぎない

空気を読めという表現には、集団が形成した空気に従うというニュアンスがある。そう言うとよく、空気を読めないことは未熟であり、空気を読めることは、大人になること、状況を適切に判断できること、であるという人がいるが、何が未熟であるのか、大人であるのか、適切な状況判断であるのかといった基準を定めることは出来ない。例えば、周りに同調することが未熟であるならば、空気を読むことこそが未熟であるということにもなるだろう。善と悪のように、個々人による判断に委ねられ、集団によって徐々に形成されるものである。ゆえに、そこに「正しさ」は存在しない。空気を読めないということは、せいぜいのところ、自分達とは違うということでしかない。ゆえに、多数派の行動、価値観、常識といったものが正しく、少数派のお前は間違いであるといったように、少数派を排除する表現でしかないのである。

自らの言葉足らずを「空気を読めない」せいにする

具体的にその場で何が求められているのかということを説明せずに、空気を読めと言ったところで、単なる説明不足でしかない。その空気がどういったものであるのか、今はどのような話をし、行動することが求められているのか、それは本当に自分だけの意見ではないのか。そういったことを説明せずに、空気のせいにするのは、単なる怠慢である。

思考停止の強要

議論に意義を唱えることすらも「空気を読まない」と言う人がいる。しかし、それでは全くもって議論する意味がなくなる。これは結局のところ、まともな議論をすることが出来ないとか、権力者のいうことに素直に従えということでしかない。

真面目であることが「空気を読めない」として非難される

学校生活において、多くの生徒が授業をサボったり、居眠りしていたり、教師を馬鹿にしたりすると、むしろそれをせずに、まじめに授業を受けて、教師にも悪口を言わないような人がむしろ「空気を読めない」として周りの生徒に非難され、場合によってはいじめられたりする。つまり、その学校で居場所を確保するためには優等生ではいられず、適度に悪そうなことをしなければならないわけである。

個人が空気を読むことではなく、それを強要することに問題がある

自らが空気を読むだけにとどまらず、それを他人に強要するとなれば、その途端に、少数派の排除といった側面が出てくる。空気を読むか読まないかは個人の自由であるとして、空気を読まない人を含めて、他人は自分とは違うということを受け入れる姿勢があれば、空気を読むことは悪いことではなく、むしろ謙虚であるといった評価も出来るかもしれない。

空気を軸とした協調性

歪な協調性の実態

空気を読もうとする意識があり、協調性があることによって、いじめを生み出しているのではないか。協調性を重んじたチームワークがあったからこそ、敗戦国である日本が戦後ここまで経済的成長を遂げたのだという人がいる。しかし、それ自体も疑わしいものである。本当に協調性があるのか。空気によって支配され、集団から疎外されれば、一切相手にされなくなるというように、集団という権威にしがみつきたいだけではないのか。それは協調性という肯定的な表現で捉えられるものなのだろうか。

個性を前提とした協調性

自らの本音を言えずに集団の意見に協調することが求められる状況では、生きづらさを抱える人が増える一方である。まずは個性を前提として、その上で個々人の個性を受け入れるという形での協調の形があるべきではないだろうか。そうなれば、必然的に「空気」という集団によって形成された曖昧でかつ権威的な表現を使うこともなくなるだろう。