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反出生主義について‐人類衰退論・反出生主義

人類衰退論について

人は生まれたくて生まれるわけではない。親に強制的に誕生「させられる」のである。そして、生まれた場合には不幸になる可能性が生じ、たとえ幸福な人生を過ごしたとしても、死ぬことが不幸な事態となる。つまり、「死」の経験を幸福だと考える場合を除き、「幸福を捨てる」「不幸から逃れる」という最期しか残されていない。もし死ぬことがないと仮定しても、その事自体が苦痛となり得る。しかし、もし生まれなければ、不幸になることはなく、幸福になる必要性も生じない。非存在においては、幸・不幸という概念が存在しないからである。そうした事情から、誰も生まれないことによって、徐々に人類が「衰退」し、出来るだけ早く人口が「0」になることが望ましいと提唱する論が「人類衰退論」である。基本的には「反出生主義」の一種として、「人類衰退論・反出生主義」という書き方をする。この論の詳細については、下記の「人類衰退論の重要な論点」と「人類衰退論・反出生主義」タグの記事をご覧いただきたい。

人類衰退論の重要な論点

「死」を考慮に入れた上での幸・不幸

幸福な人生を歩んだとしても、いずれは「死」を迎える。そして、抱えている幸福が多いほど、「死」において捨てる幸福も多くなる。ゆえに、「死」がそれだけ不幸な経験として立ち現れ、それは「死」を意識し始めてから「死」の瞬間に至るまで続いてゆく。あるいは、不幸な人生を歩んだ場合、「死」は苦痛からの開放としての意味合いを帯びるが、幸福な人生を歩めずに「死」を迎えるのだから、それが不幸であることに変わりはない。ゆえに、「死」によって「幸福を捨てる」か「不幸から逃れる」しかないのであり、いずれも不幸な事態である。繰り返しになるが、唯一の例外は「死」自体が幸福だと考える場合だけである。

誕生しない「機会損失」と誕生する「機会損失」

生きている人間だけが「機会損失」という概念について考えることが出来るのであって、生まれてこなければ「機会損失」する当事者は存在しない。非存在に対して、存在した場合を想定して考えるのはナンセンスである。しかも、生まれたということは、親が強制的に誕生させたということであり、生まれない事を選ぶ機会を損失してしまっている。この場合には当事者(被害者)がいる「機会損失」である。

出生は親の自己満足である

出生の理由としては、様々なものが考えられる。単純に「子供が欲しい」「孤独から逃れたい」あるいは「老後の面倒を見てほしい」というものは、露骨に「自己満足」である。また、「国家に貢献するため」あるいは「理想社会をいつか実現してくれる」などという、世間一般的に「真っ当」な理由にしても、自分がそうあって欲しいというだけのことであり、「自己満足」の言い換えである。その他、どんな理由があるにせよ、子供は選択肢を与えられず、親が強制的に誕生させるという選択をする以上、子供のために子供を誕生させるということなく、親の「自己満足」でしかあり得ないのである。

あらゆる親は「無責任」である

幸・不幸は個人の主観に委ねられるものであり、親がいくら頑張ったところで、子供が幸福になれる保証はない。現世において、ほとんどの人が幸福になれるであろう環境を提供したとしても、それによって幸福になれるとは限らないのであるし、もし幸福な人生であったとしても、「死」の問題が解決されることはない。ゆえに、親は決して「責任」を取ることができない。「無責任」にならざるを得ないのである。

「産んだ責任」と「誕生させた責任」と「強制した責任」

「産んだ責任」は母親にあるが、「誕生させた責任」は両親にある。しかし、誰の責任がどの程度重いのかというのは、誰がどの程度「子供の誕生」を望んだのかによる。もし完全に被害者である場合、その人間の責任は一切ないと言える。また、子供を産むように強制・強要した人物がいた場合、その関わり方に応じて、その人間の責任が最も重い、あるいはその人間だけに責任があるということにもなってくる。「子供の誕生」を「強制した責任」があるわけである。

「産んでくれとは頼んでいない」という正論

「産んでくれとは頼んでいない」という発言は、「親不孝」や「反抗期」などとレッテルを貼られ、議論に値しないものだとして葬られてしまっている。しかし、この発言は全くの正論である。子供は「産んでくれ」と頼んで生まれてくるわけではない。親が「子供の意志に関係なくそうするのであって、子供には一切選択肢が与えられていない。

人類衰退論の注意点

幸・不幸を判断しているわけではない

幸・不幸が個人の主観に委ねられるのは当然のことであるが、だからといって「幸・不幸のカテゴライズ」を利用できないわけではない。どのような経験が幸・不幸であるかを対象にしているのではなく、あくまでその結果として生じた幸・不幸というカテゴライズだけを対象にしているわけである。

幸福の経験を重視する場合について

「死」を含めて、不幸な経験を踏まえてもなお、生まれたことによって幸福な経験をできたことを重視し、自らが生まれたことが望ましいことであったと考える場合があるという意見もあるかもしれないが、これは「死」の問題を安易に考え過ぎである。最終的に「幸福を捨てる」ことを余儀なくされるわけであり、それは紛れも無く不幸な体験である。捨てても構わない幸福というのは、そもそも幸福にカテゴライズされない。一概に幸・不幸を区別できないとしても、「死」によって、幸福に傾いている分だけ差し引かれるわけである。

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